リカ活動家の日々のこと

リカちゃん人形に着物を仕立てて着せる沼に浸かる活動家。

ニューヨークタイムズ「シカゴ7について知っておきたいこと」

以前に書いたシカゴ7裁判の感動が冷めないうちに・・・。

tototomoton.hatenablog.com

 

パンフレットが無いのが悔しいので、物好きにもニューヨークタイムズ紙の記事を和訳してみました。

興味のある人は(なければ長すぎて読まない投稿ですが。。。)読んでみてください。

 

元記事はこちらです。

www.nytimes.com

シカゴ7裁判を観るなら知っておきたいこと

ナンシー・コールマン

2020年10月16日ニューヨークタイムズ

 

アーロン・ソーキン監督のネットフリックス映画は多くの登場人物のいる1969年の悪名高い政治裁判をドラマチックに描いている。

誰が関わり、何が争点だったのかを整理してみたい。

 

全米で抗議デモが頻発し、大統領選は目前だ。

デモ隊と権力側の対立は最高潮に達している。そして政治的にも社会的にも大きな変化が社会にもたらされる時、同時に悲惨な犠牲は避けられない。犠牲とは多くのアメリカ人の命のことだ。

 

どう考えても2020年の夏は歴史に残る夏だった。そして、ある意味で1968年の夏に酷似しているように思える。

 

当時はもちろんトランプ大統領ではなく、ジョンソン大統領からニクソン大統領になった時代だ。人々はコロナウィルスではなくベトナム戦争で死んでいた。抗議活動の中心は公民権運動だったが、キング牧師は数か月前に暗殺され、徴兵が拡大していくなかで平和を求める声が強まっていた。

 

8月末の民主党の全国大会が行われるシカゴで、この緊張は頂点に達する。州兵、アメリカ軍そしてシカゴ警察が約一万人も動員され集会参加者(もちろんその中には当時の言葉を借りて言えば「外部の扇動者」と呼ばれる人々もいた)を取り締まった。後にニューヨークタイム誌のジャーナリストであるトム・ウィッカーは「あの時、シカゴで起こったことはすべてにおいて、新しいフェースだった。分断、対立、衝突、そして恐怖がこれまでにない激しさで襲い掛かってきた」と一年後に当時を振り返っている。

 

デモを組織するリーダーたち7名は連邦裁判所の司法制度下で裁かれることとなる。その彼らの苦しい裁判闘争がアーロン・ソーキン監督の「シカゴ7裁判」で描かれている。

 

この映画はソーキン監督自らが脚本も手掛けたが、内容は比較的史実に沿ったものとなっている。監督が早口で語ったことによれば一部は裁判での陳述記録をそのまま使用しているという。とはいえ、すべてを2時間の映画で描き切るのは不可能だ。だからこそ被告たちとこの裁判について、何を知るべきなのかを書いていきたい。

 

シカゴ7とは誰なのか?

民主党大会の場所シカゴに集まったデモ隊は決して一枚岩ではなかった。多くの団体が有機的に集まった中にイッピーと呼ばれた国際青年党、社会民主学生委員会、そしてベトナム反戦・平和を求める全米委員会などがあった。それらの団体は戦争反対と平和を求めるという点においては一致していた。

 

シカゴ7は様々な団体に所属するリーダーたちだった。

 

アビー・ホフマンとジェリー・ルービンはイッピーの創始者であり、劇場型の派手なパフォーマンスを好んだ。裁判ではホフマンとルービンは裁判官の法衣を身にまとって裁判官のジュリウス・ホフマンのコスプレをしたこともあった。なお、この二人のホフマンに血縁関係は無いが、アビー・ホフマンは法廷で裁判長を「法的には他人の父親」と呼ぶことをやめなかった。

 

デイビッド・デリンジャーベトナム反戦・平和を求める全米委員会を組織しており、ホフマンらよりふた回り年上で、最年長の被告だった。2004年に彼が亡くなった時、タイム誌は「デリンジャーはシカゴ7裁判においてその経験に裏付けられた影響力と実直さは群を抜いていた」と追悼記事を寄せた。

 

トム・ヘイデンとレニー・デイビスベトナム反戦・平和を求める全米委員会のシカゴ支部の責任者であり、もともとは社会民主学生委員会のリーダーだった。ヘイデンはコロンビア大学の構内を占拠するなどの学生の抗議活動を組織した。デイビスはホフマンを除けば唯一裁判で証言した被告だった。彼自身が民主党大会の会場近くのグラントパークで意識を失うまで多数の警官から暴行を受けた経験を証言している。

 

リー・ウェインナーとジョン・フロイネスは両方とも学者で、フロイネスはオレゴン大学の化学の教授でありウェインナーはノース・ウェスタン大学の社会学部で研究助手をしていた。両者ともにベトナム反戦・平和を求める全米委員会に関わっていたものの、他のメンバーと異なり、指導的立場にはなかった。そしてこの二人だけは判決ですべての告訴が取り下げられている。

 

何故シカゴ8は7になったのか?

ボビー・シールはブラックパンサー党創始者のひとりであり、最も謎めいた被告だった。裁判で起訴されるまで彼は他の7人とは面識がなかったにもかかわらず彼ら8人は暴動を誘発しようとしたという共謀罪で起訴された。

 

シールとホフマン裁判長は法廷で常に険悪だった。シールの弁護士であるチャールズ・ギャリーは健康上の理由でカリフォルニアにとどまっており、シカゴに来ることができなかった。シールは繰り返し自ら弁護を行うと主張したが、裁判長に拒否された(シールは裁判長を「差別主義者」「ブタ野郎」「ファシスト」と呼んだ)

 

数週間にも及ぶ激しい口論の末、ホフマン裁判長は刑務官に命じてシールにさるぐつわと拘束具をさせて出廷させた。シールのその姿は全米に衝撃を与えた。最終的にホフマン裁判長はシールの裁判を他の7名の裁判とは分離し、シールには16件の法廷侮辱罪で4年の刑が科された。

 

裁判はどう決着したか?

ソーキン監督はこの話にそれほど脚色を加えなかった。1969年の秋に始まり5か月近く続いた裁判そのものがあらゆる点において十分ドラマチックだったからだ。

 

被告らと弁護団、ウィリアム・カンストラーとレオナルド・ワイングラスは公然と法廷で裁判長を批判した。(合計で弁護団と被告らは150件以上の法廷侮辱罪を科せられている)手続き上の争いは頻発し、連邦司法センターによればホフマン裁判長自らも何度か彼の差別的偏見の露呈を隠ぺいしようとしたとされている。

 

これらの法廷での闘争は、前例のない嫌疑をかけられている被告らにとっては有利に働かなかった。彼らはアメリカ史上初めて1968年の公民権法の中にある暴動防止法という条項に基づいて共謀して暴動を扇動しようとした罪に問われていた。シールを含む6人については暴動を扇動する意図で州の境を越えたことが起訴理由だった。残りの2名のウェインナーとフロイネスについては爆発物の製造方法を他者に教えた罪(のちに無罪)に問われていた。

 

被告らはこの裁判は刑事裁判ではなく政治裁判だと主張し、裁判を闘った。

しかしながらホフマン、デリンジャー、ヘイデン、デイビスの5名の被告らは共謀して州を越え、暴動を扇動した罪で有罪となった。ホフマン裁判長は最大5年の禁固刑を科した。しかしながら有罪判決は上訴裁判所によって1972年に全会一致で覆された。

 

裁判後も被告らの大半は活動を続け、ヘイデンはカリフォルニア州議会議員になり、ホフマンは講演活動や執筆を行った。ウェインナーは政治コンサルタントとして名誉棄損に反対する活動に参加した。カンストラー弁護士はその後も左翼活動家や誰もやりたがらないような被告の弁護活動を続けた。

 

なによりもその後、党大会での抗議活動が伝統となったことは彼らの最大の功績だ。

前出のウィカー氏は「彼らの率いたデモ隊、そして権力との法廷闘争はアメリカ社会が豊かで強大で安全保障の国家であるという偽りの仮面をはぎ取り、人々の前に国家の別の姿をさらけ出した。困難に直面し、その精神もまた不安とねじれと恐怖がせめぎあう国としてのアメリカの姿を」と書いている。