去年の選挙の時にchoose life projectのイベントを視聴した。
菅内閣の政府が6名の学者さんを日本学術会議のリストから任命しなかった事がテーマだった。
任命されなかった学者さんや、学術会議の元会長さんたちと並んで、語り合っていたのがこの本の著者である温又柔さんだった。
「忖度」という言葉はドイツ語で「先取り的服従」という意味だと法学者の広渡先生が言った。
その言葉をとても柔らかい感性で受け止めていた彼女の、言葉そのものへの感受性がどこからきたのかが、この本を読んで伝わってきた。
日本語は自分を存分に思考させてくれる言語。
私はそんなふうに日本語をとらえたことがない。
それは、自分がこの国の多数派で、矛盾を感じずに「国語」を習い、ただ成人になっただけで「主権者」の立場を手に入れてきたからだ。
この本を読みながら強烈に蘇ってきた記憶がある。
アメリカにいた時、私と娘の話す日本語を聞いて娘の友達がふざけてまねた事があった。
その時、彼の母親がまだ4歳くらいのその男の子に「2人は意味のある言葉を話しているの。自分と違う言葉をそういうふうに扱うことはすごく失礼な事なのよ」と忍耐強く語った。
その時は正直(そんなに厳しくこんな小さい子に言わなくてもいいのに...)と、しょんぼりする彼を見て、気の毒になった。
でも何年経ってもその光景を私は覚えている。
時間が経つほどに、自分と娘の話すあの時間を彼女は守ったのだと思うようになった。
そのママ友は、自分自身が4歳の時に中国からアメリカに来た中国系アメリカ人だった。
自分の文化と異なる言語を「雑音」扱いすることの秘める凶暴さを彼女は私よりもよほど知っていたのだと思う。
色とりどりの糸が織り込まれた布地のように、多様な文化の中で育ち、どの言葉も痛みを伴いながら大切に扱うこの人の文章をたくさんの人が読んでくれるといいと思う。